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今回紹介する雄別炭鉱は北海道にある有名な心霊スポットです。読み方は雄別炭鉱(ゆうべつたんこう)と言います。不気味な廃墟があり、数々の恐ろしい恐怖体験・怖い噂が伝えられているため心霊マニアから北海道で一番恐ろしい心霊スポットと称されています。今回はそんな雄別炭鉱の歴史・恐怖体験・怖い噂・場所・行き方を紹介します。
雄別炭鉱は北海道釧路市(合併前の旧阿寒町)に存在した炭鉱です。北海道最古の炭田である釧路炭田の中でも大規模な炭鉱で、最盛期には生産量年72万6千トンを記録し、周辺エリアに15000人の住民が住んでいました。現在は住民がいなくなり、住民が利用していた施設は廃墟となり、不気味なゴーストタウンになっています。
【他の北海道の心霊スポットについて詳しく知りたい方はこちらの記事を読んでみてください。】
最盛期には生産量年72万6千トンを記録し、周辺エリアには15000人の住民が住んでいたにも関わらず、なぜ住民が立ち去り、不気味な廃墟だらけになったのでしょうか。ここからは廃墟になる前の雄別炭鉱の歴史について紹介します。
前にもちらっと載せましたが、炭鉱閉山50年の冊子。スキャナー取込版。
— km (@vhc00013) March 6, 2021
昔の雄別炭山駅や雄別局の姿も。結構おしゃれな建物が多かったみたいですね。 pic.twitter.com/DZIsyuK3dU
1919年に北海道炭礦鉄道株式会社が創業され、雄別炭鉱の開坑作業と鉄道敷設を開始します。1921年に生産が開始され、1923年に鉄道開通により本格化します。しかし関東大震災・第一次大戦による不況で会社は経営が悪化してしまい、1924年に三菱鉱産株式会社によって買収され、同社子会社の雄別炭礦鉄道株式会社になりました。
1938年に雄別炭鉱の主力坑口である雄別通洞が完成します。主力は雄別通洞でしたが、舌辛川沿いにも数カ所の坑口がありました。それぞれの坑口で採鉱を進めていましたが、規模拡大と共に坑口・諸施設の集約など近代化を進め、1941年には戦前・戦中期最大の生産量である66万4千トンを記録します。
[雄別炭礦の思い出165]
— 藤田清志 (@Kiyoshi4771) June 10, 2021
三区詰所とその周辺
組合の坂を上がった先に、三区詰所がありました。
この三区詰所の隣には購買会、裏には西村床屋がありました。
また、近くには竹馬を自在に操る池田さんという雄別のお祭りの人気者が住んでいました。
写真は三区詰所です。 pic.twitter.com/yeidUl5cqu
雄別炭鉱の成長と共に周辺エリアの人口は増加してゆき、住民たちが快適に暮らすための住居・学校・映画館・病院といった施設が作られました。1935年にはのちに有名な心霊廃墟スポットになる廃病院の前身である雄別炭鉱診療所が雄別緑ヶ丘にて開設されています。それから4年後に診療所は旭町に移転され、雄別炭鉱病院となりました。
雄別炭礦鉄道株式会社は終戦後の財閥解体の動きを受けて1946年に三菱財閥から独立します。1950年代には朝鮮戦争特需により雄別炭鉱の出炭量が増加します。その後、機械化・効率化を推し進めたことで1964年には雄別炭鉱史上最大となる生産量年72万6千トンを記録しました。しかしそれから6年後の1970年に雄別炭鉱は閉山してしまいます。
雄別炭鉱が閉山した最も大きな要因は政府が1960年代に石炭から石油へのエネルギー転換を行ったからです。1960年代に石炭は物価上昇により採掘コストが上昇しますが、石油は原油の輸入自由化により原油価格が安くなります。また石油は石炭よりも利便性が高いです。そして石炭採掘はガス爆発や落盤、落石など事故が多く大変危険です。
以上の理由から政府はエネルギー変換を行いました。その結果、石炭の需要が落ちてしまい、石炭産業と炭鉱は衰退します。それは雄別炭鉱でも例外ではなく経営不振に陥り、1970年に閉山してしまいました。
雄別炭鉱の周辺エリアが恐ろしい心霊スポットとして全国でも有名になったのは雄別炭鉱にある不気味な廃墟、雄別炭鉱病院が大きな要因になっています。ここからは雄別炭鉱が有名な心霊スポットになった理由について解説していきます。
雄別炭鉱の閉山に伴い、住民たちは雄別炭鉱の周辺エリアから立ち去りました。炭鉱の従業員の多くは奥地の炭鉱や待遇の良い関東へと移住したそうです。雄別炭鉱の周辺エリアの施設は取り壊されず放置されたため廃墟になってしまいました。
雄別炭鉱の周辺エリアは人気がなく、廃墟があって不気味な雰囲気が漂っています。人がいなくなり廃墟だらけで不気味な雰囲気が漂っているため有名な心霊スポットになりました。
雄別炭鉱の心霊スポットの中で特に危険だと言われているのが、雄別炭鉱病院跡地です。雄別炭鉱の心霊スポットの中で霊が一番出ると言われ、またこの病院にまつわる恐ろしい恐怖体験・怖い噂が数多く報告されているため特に危険だと言われています。
雄別炭鉱病院はインパクトが強いため心霊マニアがネットで口コミを広め、テレビ・雑誌が特集しました。雄別炭鉱病院が有名になり、雄別炭鉱が有名な心霊スポットになりました。
雄別炭鉱病院にまつわる恐ろしい事件・怖い噂の中で特に有名なのが、火災や事故で多くの人が亡くなった、霊安室に行くと呪われる、宜保愛子も恐れたというものです。ここからはそれらの雄別炭鉱病院跡地にまつわる恐ろしい事件・怖い噂について詳しく紹介します。
雄別炭鉱病院では1968年に火災が発生していますが、その火災で多くの人が亡くなったと言われています。雄別炭鉱稼働時にはガス爆発・落盤・落石などの事故が度々起こり、多くの犠牲者が出ています。大きな事故だと1935年に95人、1955年に10人、1969年に19人がガス爆発により命を落としました。
そうした炭鉱の事故によって負傷した人が病院に運ばれ、多くの人が命を落としたと言われています。
雄別炭鉱病院の霊安室に行くと呪われるという怖い噂があります。特に有名なのが一晩放置された少女が白髪になったというものです。ヤンキーたちが雄別炭鉱病院で少女を乱暴しようとしたところ、少女に抵抗されたので、怒って少女を霊安室に閉じ込めて置き去りにしました。それからヤンキーたちはどうなっているのか気になり霊安室へと戻ります。
ヤンキーたちがドアを開けると人間とは思えない恐ろしい形相をした少女が襲い掛かってきたそうです。少女の姿をよく見てみると頭が白髪になっていました。ヤンキーたちは恐怖を感じ逃げ出しました。少女は幸い保護されたものの今でも精神病棟で治療していると言われています。
1980~1990年代にオカルト番組ブームを巻き起こした伝説の霊能力者である宜保愛子さんは生前、「霊視!宜保愛子の道東霊道巡り」という番組で雄別炭鉱を訪れたことがあります。その際に雄別炭鉱病院にも訪れていて、病院には炭鉱夫の霊が多数さまよっていると不気味なことを言っていました。
また霊の中には「自分の居場所はここにしかない、娑婆に帰ると捕まる」「帰る場所もない、ここにいるしかない」とささやく霊がいると恐怖体験を報告していました。
雄別炭鉱病院の火事で多くの人が亡くなった、病院で多くの事故の負傷者が亡くなった、霊安室に行くと呪われるという不気味な恐怖体験が報告されていますが、どうやら真相は違うようです。ここからは雄別炭鉱病院にまつわる噂の真相について紹介します。
雄別炭鉱病院は旧病院(1939年に開設)と新病院(1968年に開設)があります。1968年に火事で全焼したのは旧病院の方で、現在心霊スポットとして人気なのは新病院の方です。新病院は旧病院の隣に建築されましたが、火事の被害を受けていません。旧病院は木造だったので全焼しましたが、新病院はコンクリート造だったので問題ありませんでした。
旧病院の火事で死傷者が出たという噂ですが、そうした記録はないようです。また雄別炭鉱で起きた事故の負傷者が雄別炭鉱病院に運ばれたという噂ですが、事故の負傷者が雄別炭鉱病院に運ばれることはなかったようです。
地下室の霊安室で呪われたという怖い噂がありますが、そもそも雄別炭鉱病院には霊安室がありません。雄別炭鉱病院の図面を確認した人によると霊安室は図面に記載されていないそうです。病院内で心霊現象が起こった可能性はありますが、それは霊安室ではありません。
地下室の霊安室で呪われたという恐怖体験を報告している人がいますが、その人たちは勘違いしたようです。
新病院は武道館・京都タワー・東京中央電信局などのデザインを手掛けた有名建築家の山田守さんが設計を手掛けています。新病院は当時としては珍しくバリアフリーが完備されたモダンなデザインの病院でした。そんな新病院は1968年に設立されていますが、1970年には閉山しているため、ほとんど運営されていません。
運営された2年の間に炭鉱事故はありましたが、事故の負傷者が運ばれた、大きな事件が起きたという記録はないようです。火事・事故の負傷者が亡くなったという怖い噂がありますが、信ぴょう性にかける噂と言えます。
当時としては最新設備を完備し華々しく開院したものの完成してほどなく閉鎖された雄別炭鉱病院ですが、現在はどうなっているのでしょうか。ここからは雄別炭鉱病院の現在について紹介します。
雄別炭鉱病院
— おかちん⌘ (@okachin1103) May 6, 2020
落書きが綺麗になっていました。セキュリティが入っていますね。警告音(機械声)も出ます。セキュリティの自動通報先もわかりました。立ち入り禁止表示は有りませんが、入ってはいけませんね。 pic.twitter.com/LzU1Pkm38z
以前は肝試しに来る人が多く、地元の不良・暴走族のたまり場になり、落書きが多く危険でした。しかし2018年から2019年にかけて清掃と補修工事が行われ、壁や天井にセンサーライトと防犯カメラが取り付けられています。現在は立ち入り禁止になっているようです。
これらの対応は行政が行ったわけではなく雄別炭鉱の周辺に住む人たちが治安維持のため、また文化的な価値が高い病院を保存するためボランティアで行われたようです。勝手に入ったら不法侵入になるようなので絶対に立ち入らないようにしましょう。
2007年に経済産業省により雄別炭鉱病院を近代化産業遺産の一つに認定されました。また有名建築家の山田守さんが手掛けた病院のデザインは高く評価されています。「愛の流刑地」「失楽園」で知られる渡辺淳一さんはこの病院で出張医として勤務した経験があり、病院での体験が小説の中で綴られています。
雄別炭鉱病院は文化的な価値が非常に高く、貴重な近代遺跡と言えるので決して荒らさないようにしましょう。
雄別炭鉱周辺は国有林であるため人の立ち入りが少なく、豊かな自然が残っていて、野生生物たちの住処になっています。そこには北海道にしか生息していないヒグマも生息しているといいます。ヒグマは大きいにも関わらず足の速さが時速50~60kmです。また捕食対象とした獲物をしつこく追いかけるので非常に危険です。
地元民も幽霊よりもヒグマの方が危険だと言います。ヒグマがとても危険なので雄別炭鉱を訪れない方がよさそうです。
雄別炭鉱には他にも不気味な心霊スポットがあり、そこで起こった恐ろしい恐怖体験がたくさん報告されています。また雄別の炭鉱と鉄道の歴史を深く知ることができる資料館も近くにあります。ここからは雄別炭鉱の観光スポットと恐ろしい恐怖体験を見ていきましょう。
雄別炭鉱のランドマークが、雄別炭鉱煙突です。閉山前までは売り物にならない石炭等をこの煙突で燃やして蒸気を起こし、その蒸気をパイプで各家庭のお風呂・暖房に送り届けていました。そんな煙突にも背筋が寒くなるような恐ろしい噂がいくつかあります。
有名なものを紹介すると、現在使用されていないのに煙突から煙が出ていた、煙突が逆さまに見えた人はそこから帰れなくなる、煙突の上で手を振る子供に手を振り返すと煙突の中に落とされるという命の危険を及ぼす怖い噂があります。
雄別炭鉱には協和会館という施設があります。ここは宜保愛子さんが訪れた場所としても有名な映画館跡地です。宜保愛子さんが訪れた際、映画館跡地にはたくさんの霊がいて、ベンチには40歳ぐらいの黒っぽい洋服を着た人が座っていてこちらを見つめてきたという不気味な恐怖体験を報告していました。
そんな映画館跡地は閉山後も長い間原形をとどめていましたが、1997年頃に火災が発生した際に木造部分が焼け落ち、現在はコンクリート造りの映写室が残るだけになってしまいました。
北海道釧路市阿寒町上阿寒に「阿寒炭鉱と鉄道館 雄鶴」という雄別炭鉱の歴史を紹介する資料館があります。館内には当時の雄別炭鉱と鉄道の歴史を詳しく知ることができる資料が展示され、資料館の裏手には釧路市と旧阿寒町の間を走っていたC11蒸気機関車が展示されています。
この資料館は入場料が無料であり、バリアフリーが完備されているため入りやすいです。営業時間は午前10時から午後4時までで、10月から4月まで営業していないので注意してください。
住所 | 北海道釧路市阿寒町雄別22線 |
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行き方・アクセス | 大楽毛駅から自動車で約40分 |
最寄駅 | 大楽毛駅 |
最寄りのバス停 | "阿寒町(バス) |
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雄別炭鉱跡地は、現在の住所でいうと北海道釧路市阿寒町にある布伏内(ふぶしない)というエリアにあります。釧路空港から布伏内への行き方は、まず国道240号線を阿寒湖方面へと北上します。大きく東に曲がる場所がありますが、そのまま直進し、20分ほどすると布伏内エリアに到着します。
雄別炭鉱煙突跡はさらに直進し、10分ほどです。雄別炭鉱病院跡はそこから7分ほどで到着します。なお、冬場は山の手浴場前から通行止めになるので注意してください。炭鉱と鉄道の資料館は大きく東に曲がる場所で東に進み、8分ぐらいのところにあります。
雄別炭鉱は不気味な廃墟があり、数々の恐ろしい恐怖体験・怖い噂が伝えられ、好奇心をくすぐられる心霊スポットです。しかしヒグマが出没したり廃墟が崩落したりする危険性があります。また貴重な文化財でありボランティアの方が保存活動を行っています。雄別炭鉱には決して行かないようにしましょう。