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長崎県長崎市に位置する小さな島こそ、長崎県内屈指の恐ろしい廃墟・心霊スポットである軍艦島です。正式名称は端島(はしま)といいます。島全体において、繁栄当時の姿が現在までそのまま残っていることから、2015年には世界遺産にも登録されました。
そんな軍艦島こと端島ですが、実は富士の青木ヶ原樹海とともに、世界七大禁断の地としても有名です。この記事では、そんな軍艦島がなぜ現在のような恐怖の廃墟・心霊スポットとして注目されたのかを追求していきます。
尚、長崎が有する恐怖の心霊スポットについて詳しく知りたい方はこちらの記事を読んでみてください。
今や長崎県内の恐怖の廃墟・心霊スポットとして有名な軍艦島ですが、本来はどのような島なのでしょうか?ここからは、軍艦島がどのような島なのかを解説してきます。
軍艦島こと端島は、今でこそ長崎県の有名な廃墟・心霊スポットに数えられています。もともとは南北320m、東西120mの大きさしかない島だったが、のちに工事により東京ドーム5個分ほどの大きさに拡張されました。海底炭鉱の場として、明治から昭和の日本の成長を支えてきたとされています。
軍艦島にて石炭が発見された時期は定かではありません。しかし、本格的に「端島炭鉱」として活用されるようになったのは、三菱社が島全体と鉱区の権利を買収した1890年頃とされています。
端島炭鉱で採れる石炭は質が良いと注目され、買収後の出炭量は1897年には高島炭鉱を超えるほどにまで成長したようです。
「端島炭鉱」として日本の近代文化を支えてきた軍艦島は、出炭量の増加に伴い急成長を遂げました。1960年頃に5,267人もの住民が住み、当時の人口密度としては東京人口密度の9倍以上であり、世界一を誇っていたようです。
入坑桟橋や安全祈願と慰霊の場である端島神社、島民が暮らす集合住宅などが存在しています。アパートについては、日本初の鉄筋コンクリート造りの高層集合住宅が建設されたことでも有名です。
他にも、300所帯が住めるマンモスアパートや市場、屋上保育園などもあります。恐怖の心霊スポットとなった現在でも、このような点から当時の成長ぶりや人々の暮らしがうかがえます。
当時の国の主要エネルギーである石炭を多く産出し、目まぐるしい成長を遂げた軍艦島でしたが、1960年代になると、その繁栄に陰りが見えるようになります。1960年以降といえば、エネルギー革命によって主要エネルギーが石炭から石油に移り変わった時期です。
軍艦島にもその影響は訪れ、エネルギー政策によって1970年には端島沖開発は中止、1974年1月15日に閉山されます。また、石炭から石油へのエネルギー革命により、すべての住民が余儀なく退去することになりました。
同年4月20日に全ての住民が島を離れたことで軍艦島は無人島化し、現在のように呪いの廃墟や心霊スポットとして有名になりました。
呪いの廃墟・心霊スポットとして有名になった軍艦島ですが、2015年には世界遺産に登録されました。登録理由としては、明治日本の産業革命遺産であり、製鉄や製鋼、石炭産業の構成資産として認められたからだとされています。
住居や炭坑の様子、街並みなどといった軍艦島の様子は、廃墟となった現在でも確認が可能です。
今でこそ世界遺産に登録された軍艦島ですが、実は呪いや心霊現象などといった恐ろしい噂も存在しています。そのためか現在では、長崎県が有する恐怖の心霊スポットにも数えられています。
しかし、日本の近代文化を支えてきた世界遺産の軍艦島が、どうして現在のように恐ろしい心霊スポットとして有名になったのでしょうか?ここからは、軍艦島が「心霊現象が多発する心霊スポット」と呼ばれるようになった理由を、歴史に基づいて解説していきます。
軍艦島で働く坑夫たちは、納屋頭と呼ばれるリーダーに生活の全てを管理されながら働く「納屋制度」のもと暮らしていたようです。「生活の面倒を見てもらいながら働く」と聞くと良さそうに見えますが、その労働実態はとても過酷でした。納屋のルールに従わないものは、吊し上げやリンチをはじめとした恐ろしい罰を与えられました。
また『日本労務管理年誌』によると、炭坑での暮らしを楽園だと吹聴し、その噂を聞いて集まってきた人々をだまして雇用することもあったのだそうです。会社が推奨した賭博で借金地獄にさせて逃げられなくしたりなど、坑夫を取り巻く環境も極めて怖いものでした。
軍艦島が恐怖の心霊スポットとして数えられているのも、そんな恐ろしい納屋制度のもと働き、亡くなった人々の魂や恐怖心が軍艦島に渦巻いているからといえるでしょう。
軍艦島の坑夫たちは、たとえ体調が悪くても強制的に炭坑へ送り込まれました。労働時間は1日12時間の2交代制だったようで、1916年以降は少年や女性も炭坑で働くようになります。
1940年代になると、出炭数が最盛期を迎えるとともに、坑夫たちの生活はどんどん劣悪になっていったようです。この時期の死亡者は日本人1162人、朝鮮人122人、中国人15人にもなりました。爆発事故や落盤による圧死・窒息死などが主な死因であり、当時の推定人口の4割が死亡したとされています。
軍艦島が怖い心霊スポットと呼ばれるのも、そんな強制労働のもと亡くなった人たちの無念が、様々な心霊現象を起こしているからだとも言われています。
坑夫たちが作業を行う地底では、常に落盤やガスによる爆発事故などといった恐ろしいトラブルと隣り合わせの状態でした。実際に閉山するまでの間、軍艦島では様々な死亡事故が発生しています。『長崎日日新聞』(現在の長崎新聞)によると、1927年5月には大規模な粉炭墜落によって4人が死亡しました。
1939年には炭坑にて大規模なガス爆発事故が発生し、34名の死傷者を出しています。強制労働による死者とともに、軍艦島が呪いの心霊スポットと呼ばれる理由となった、怖い歴史の1つといえるでしょう。
軍艦島といえば坑夫たちのイメージが強いですが、実は遊郭も存在していました。遊郭は南部商店街に存在したとされており、日本人用・朝鮮人用などといった専用の遊郭が3軒ほどあったのだそうです。
実は遊郭で働く人々も強制労働させられていたようで、この噂も軍艦島の怖い歴史に数えられています。1957年に売春防止法が制定されて以降は、遊郭自体が徐々になくなっていきました。そんな遊郭で強制労働させられた人々の思いも、呪いとして島に残っているのでしょう。
様々な怖い歴史を持つ軍艦島ですが、島を訪れた際には様々な心霊現象が発生するという噂も存在しています。ここからは、軍艦島で発生するとされる、怖い心霊現象の噂について一つひとつ解説していきます。
軍艦島で起こる有名な心霊現象の1つに、幽霊に体を乗っ取られるという話があります。この心霊現象については、YouTuberグループのフィッシャーズ・シルクロードさんが動画内で自身の心霊体験を語っています。
シルクロードさんが修学旅行で軍艦島を訪れた際、写真撮影中に意識がなくなったのだそうです。また、意識がない状態でありながら、自分の体がトンネルまで歩いていくのを感じたとのことです。その写真にはなんと、おかっぱの女の子の霊が写っていました。
心霊カウンセラーによると「炭坑で事故にあった女の子が取り憑いている」とのことでした。シルクロードさん自身に害はない霊だそうですが、彼のまわりの人に悪影響を及ぼす存在だったそうで、実際に友人が怪我や骨折をするなどの、少女の呪いともいえるトラブルに見舞われたようです。
廃墟となった軍艦島の内部は、Googleのストリートビューでも閲覧可能です。しかし、軍艦島のストリートビューに人の手が写り込んでいたという恐怖のエピソードも存在しています。
SNSでは、実際に人の手が写り込んでいるストリートビューの写真が投稿されています。軍艦島で亡くなった人たちによる呪いや心霊現象、またはストリートビューの撮影者の手が写り込んだだけとも噂されていますが、真実は謎のままです。
心霊スポットの例に漏れず、軍艦島においても、心霊写真が撮影できるという噂もあります。一例としては、廃墟のビルやアパートを撮影すると人影、街並みの写真を撮ると子どもの手が写り込むと言われています。
心霊写真についても、炭坑での事故で亡くなった人たちの呪いや無念の表れといえるでしょう。
住所 | 長崎県長崎市高島町端島 |
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行き方・アクセス | 長崎港ターミナルより長崎港~軍艦島上陸周遊フェリーで約40分 |
恐ろしい心霊スポットとして知られる軍艦島には、長崎港ターミナルよりアクセスが可能です。しかし現在は、単独での上陸は不法侵入として禁止されています。そのため、海運会社が実施している軍艦島ツアーへの参加が必須となりますので、注意しましょう。
世界遺産に登録された軍艦島ですが、2019年には島の内部でアスベストが使われていた可能性があるとして、一時期は立ち入り禁止になっていました。
しかし、2019年8月9日の朝日新聞によると、アスベストではなく石膏と塩化ナトリウムであることが判明しており、8月10より軍艦島上陸の再開が発表されました。そのため、軍艦島ツアーによる廃墟探索も可能になっています。
しかし、軍艦島ツアーを利用している場合でも、軍艦島には一定の天候・安全基準を満たしていない場合には上陸不可能になる場合があります。